6月26日(月)
本日のランチ
群馬県前橋市北代田町36-10 イタリア料理 ランゴスタ・ノース
5月11日(金)
JAL654便 鹿児島→羽田便が悪天候の為、出発が遅れるとのこと・・・
空港の職員に自宅に帰ることができない旨、説明すると、羽田空港内にある「羽田エクセル東急ホテル」に部屋を用意していただきました。
パイロットやスチュワーデスさんが宿泊するような綺麗なホテルでした。
トラブルとはいえ、疲れた体を休めて帰れたことは本当によかった。
ちなみに自宅に帰るまでの交通費(1人上限¥15000まで)もJALの鹿児島空港が持ってくれるというので、帰りの交通費が浮きました。
オットマンなど大きな姿見や家具類も非常に機能的かつ、おしゃれにデザインされていました。
ベットの寝心地も良かったです。
窓からの景色
空港は朝から人でいっぱいでした。
モノレールにのって浜松町まで
東京に別れを告げて群馬に帰ります。
【追記】4泊五日の屋久島・鹿児島旅行、あっという間に終わりました。出会った人たちがみなさんとても気さくで優しい印象深い旅となりました。屋久島の自然、郷土料理・・・指宿の砂蒸し風呂、料理、開聞岳や神社めぐり・・・たくさんの思い出ができました。みんなに感謝です。
5月11日(金)
鹿児島、最後の晩餐は空港近くにある「こうじ蔵GEN」
18:30に到着。工場見学はできないので食事だけです。
焼酎造りには欠かせない河内菌白麹の発見者、
河内源一郎さんの『源』をとって『GEN』なんですね〜
老舗焼酎メーカー、錦灘酒造さんのお店です
麹のテーマパーク:バレル・バレープラハ&GEN
100年種麹屋のこの施設では、自社焼酎・地ビール・麹料理が楽しめる。 世界中を回り、出会ったチェコのピルスナービールそのものを霧島の地で味わえるのも魅力の一つ。 物販コーナーも充実しているので、飛行機の待ち時間に立ち寄ることもできます。 空港間の送迎もお電話一本で可能。 また、調味料だけでなく食材そのものに麹を使い、麹豚や麹カンパチ、麹卵を楽しめるレストランもある。 まさに麹のテーマパーク!
地ビール ALL¥500
ピルスナー 黒 ケルッシュ(夏限定)の3種類があります。すべて頂きました。
本場チェコの麦芽とポップを使用し、豊かなコクと抜群の切れ味、
そして、持ちの良いクリーミーな泡が自慢の『霧島高原ビール』!!ビールの本場チェコで最も古典的な手法を取り入れ、
デコクションという製法で2回に分けて煮出しています。
さらにその後、低温で長期発酵させることにより、最高級の美味しさを実現!おいしさのためなら、手間と時間を惜しみません。
それが『霧島高原ビール』おいしさへのこだわりです。
麹蔵シーザーサラダ ¥860
お店で販売している塩麹ドレッシングで頂きました。
生ハムが美味しかった。
麹豚ソーセージバリエ ¥1190
赤色のものは赤カブの甘酢漬けです。好みは分かれます。
麹卵の出汁巻き ¥470
5月11日(金)
15:45仙巌園に到着
雨が激しくなってきて、お客さんはほとんどいませんでした。
入場料 大人 ¥1000
ガイド
仙巌園は、万治元(1658)年、19代島津光久によって築かれた別邸です。錦江湾や桜島を庭園の景観にとりいれた、雄大な景色が仙巌園の最大の魅力です。幕末の名君、28代島津斉彬がこよなく愛し、徳川将軍家に嫁いだ篤姫も足を運びました。 また、南の玄関口といわれた薩摩の歴史・風土にふさわしく、中国文化の影響が色濃く見られることが仙巌園の特色の1つです。さらに温帯と亜熱帯の境に位置することから、数多くの珍しい植物が植えられています。
幕末から近代にかけては、薩摩藩・鹿児島県の迎賓館のような存在でもありました。幕末にはオランダ海軍将校や幕臣勝海舟、イギリス公使パークスが、明治以降になると、大正天皇、昭和天皇をはじめとする皇族方、ロシア皇太子ニコライ2世、イギリス皇太子エドワード8世など国内外の数多くの要人が訪れています。 園内やその隣接地は、島津斉彬とその遺志を継いだ人々によって建てられた、日本初の工業地帯、集成館の跡地でもあります。近代日本の技術力、工業力の原点ともいえる地であり、2015年7月にはこれら史跡・建物を構成資産とする「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録されました。
鉄製150ポンド砲
反射炉跡
克灰袋珍しかったので・・鹿児島ならではですね。
5月11日(金)
江戸時代、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる102の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に麓と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を結集させることなく分散して統治にあたらせました。知覧もその一つです。「知覧麓の武家屋敷群は、薩摩の麓の典型的な作例の一つで、折れ曲がった本馬場通りに沿って連なる石垣と生垣からなる景観にも優れ、我が国にとってその価値は高い。」として、昭和56年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されいます。また、同時に地区内の7つの庭園が「優れた意匠で構成されており、その手法は琉球等庭園と相通じるものがあり、庭園文化の伝播を知る上でも貴重な存在である。」として国の名勝に指定されました。指定された7つの庭園の中で森重堅邸庭園のみが池泉式で、ほかは全て枯山水式となっていて、今に残る枯山水の伝統美と時代の息吹を感じさせてくれます。
5月11日(金)
知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん)は、鹿児島県南九州市知覧町郡(旧川辺郡知覧町)にある、第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示する施設。
写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されている。その展示されている遺影、遺品のほとんどは、知覧特攻平和会館初代館長板津忠正(元特攻隊員)が集めたものである。なお館内の展示品は全て撮影禁止となっている。
大東亜戦争(GHQ呼称太平洋戦争)直前の1941年(昭和16年)12月、知覧町に陸軍の飛行場が完成。飛行場は直ちに太刀洗陸軍飛行学校の分教所となり、戦争に突入した翌1942年(昭和17年)1月、最初の入校者78人が知覧に到着した。当初こそ九州島内や朝鮮(現・韓国)の各地に設けられた分校と同じく少飛や特幹の教育・訓練を行うことが目的とされていたが、1944年(昭和19年)夏以降、陸軍航空隊の戦術が艦船への体当たりを柱とする特攻を主軸とするものに転換。この過程で近い将来の本土決戦(決号作戦)に備えた航空関連軍学校の軍隊組織化が進められた。
陸軍飛行学校が教導飛行師団と改められるのに合わせ、 1945年(昭和20年)2月、太刀洗飛行学校は第51航空師団と改称。知覧分校は上部組織の第6航空軍に隷属する「第7飛行団」となる。こうして知覧特攻基地(ちらんとっこうきち)が誕生。振武隊(しんぶたい)と名付けられた特攻隊が出撃することになった。1945年3月20日付で、参謀本部から『「と」号部隊』と呼ばれる陸軍特攻隊の編成が発令される。同時に陸軍第6航空軍は連合艦隊の指揮下に入り、振武隊は海軍側の特攻隊として既に動き出していた神風特攻隊と共同歩調を取ることになる。そして沖縄戦始まった4月1日、第二十振武隊を皮切りに知覧からの特攻出撃が始まった。以後は海軍の鹿屋航空基地とともに特攻出撃の最前線となり、戦艦大和の最期となった坊ノ岬沖海戦で一度の戦いでは最大級となる陸海軍合わせて300機もの出撃の一翼を担うことになる。
一方で、米軍は特攻機の出鼻を挫くため飛行場をB-29の機動部隊で空襲する戦術を導入。知覧飛行場も攻撃対象となり、多くの特攻機が出撃前に失われた。陸軍第6航空軍は5月28日の菊水八号作戦を最後に連合艦隊隷属を外れたが、その後も沖縄戦線への特攻は行われた。大規模なものは6月22日の菊水十号作戦まで続き、6月25日、沖縄での組織的戦闘が終了(沖縄敗戦)するという大本営発表で知覧もその役目を終えるかに見えた。しかし、米軍の日本本土上陸はもはや間近に迫っており、知覧飛行場は帝国陸軍の本土防衛の最前線となっていた。出撃は8月15日の終戦まで、散発的に続いていった。陸軍関連の総出撃者1,036人のうち、全体の4割ほどにあたる439人が知覧から出撃したと会館では記録している。が、資料によっては変動も見られる。なお知覧から出撃したのは基本的には陸軍の部隊であることに注目する必要がある。実際に、出撃した航空機数や戦死兵の数は海軍の鹿屋基地の方が多く、知覧の2倍前後もの数となっている。ただし、陸軍の兵士であっても鹿屋から出撃したり、逆に海軍の兵士が知覧から出撃するといったイレギュラーケースもあった。また振武隊自体が神風特攻隊と混同されることも多いが、戦史の上では厳密に区別される。知覧から出撃した航空機は九七戦が最も多く、ついで一式戦闘機という順になっている。
5月11日(金)
長崎鼻(ながさきばな)は、鹿児島県南部、薩摩半島の最南端にある岬である。鹿児島県指宿市(旧山川町)に位置する。指宿カルデラの外輪山の一角を成しており、一帯は火山岩にて形成されている。
「鼻」と付く地名は名の如く、岬の基部が末広がりになる三角形状の地形であることが多い。鼻と名の付く岬は全国の至る地方で見られるが(特に九州で多い)、その中で最も有名な岬である。長崎鼻からすぐ西方には、海越しに端整な山容で知られる開聞岳がそびえ、妨げる障害物は何もないため、岬から眺める山容は非常に美しい。また、晴天時だと岬の展望台から遠く屋久島の宮之浦岳や硫黄島を遠望する。このように非常に風光明媚な土地であることから古くから観光開発されており、岬の展望台から1~2kmの沿線に土産物屋や飲食店がびっしりと建ち並び、長崎鼻パーキングガーデンという観光施設が設けられている。また、この長崎鼻一帯にも浦島太郎伝説が伝わっており、竜宮神社が鎮座する。岬及び周辺の海岸線一帯が霧島錦江湾国立公園の一角を成している。また、近辺に国の特別天然記念物であるソテツ自生地がある。
5月10日(木)
指宿での滞在・・・料理はもちろんのこと、景色のよい部屋に泊まりたい!
そこで選んだのがこちらの『花の温泉ホテル吟松』
手前の駐車場に誘導され入館。
登山終わりの汚い恰好で申し訳ありません。
海の見えるロビーに案内されウエルカムドリンク。
花のホテルの名前通り、きれいな生花・・・おしぼりにもお花が添えてあり、うれしい心遣いです。
お茶かと思ったら「篤姫茶ぶし」なるもの・・・?
味噌汁?ですね。美味しかったです。
客室は、6F露天風呂付きです。
寝室 和室 まどろみ間・・・広々ゆったりです。
寝室には桜島の絵が飾られています。
仲居さんは今年の新入社員らしく、女将さんがつきっきりでした。
疲れた体を休めるのに砂蒸し風呂を勧められたので早速、向かいました。
歩いて2~3分程度のところにあります。
係のおじさんはとても愛嬌があり、写真撮影もお手の物。
熱い砂をかけると10分位で全身に汗が吹き出しさわやかな気分になります。好みによリ砂の深さで温度を調節します。
300年もの昔から人々に語り継がれてきたその効果が、ここにきて医学的に実証されました。鹿児島大学医学部田中信行教授らの血圧や心拍数、心電図、血糖、呼吸機能など11項目に及ぶ調査結果によると、心拍出量の増加や深部体温の上昇など(図参照)数々の有効性が判明。血液の循環促進による老廃物の排出や炎症性・発痛性物質の洗い出し、十分な酸素栄養の供給がその効果の源としたうえで、砂むし温泉の効果は“普通温泉の3〜4倍”と結論づけています・・・確かに!足首の血管から血液がどくどく流れるのを感じました。すごい!!
与謝野寛、晶子の句もありました。
すっきりしました。涼んでます。
ホテルに戻って 砂蒸し料理
記念のスパークリングワイン「天使のアスティ」
イタリアNo.1アスティVINITALと金賞受賞の実力派!マスカットの華やかな香りと爽やかな風味の甘口スパークリング!天使のアスティが快挙! ジャパン・ワイン・チャレンジ 2007 金賞受賞!!! 可愛いだけじゃない!中味も美味しい甘口スパークリング! マスカットの華やかな香りと爽やかな風味を持つ甘口の発泡酒です。優しい味わいで、女性を中心に世界的に人気があります。天使は、神の使者として多くの幸せを届けてくれます。
食事処に腕を組んで来ると ドリンクが一杯無料になるってサービス
もちろん やりました! 指宿温泉サイダーGET
前菜
ゴーヤと黒豚味噌
造り 地魚盛合せ(桜鯛、カンパチ、マグロ、きびなご)
桜鯛も 肉厚で柔らかく、甘い
さつま揚げ 目の前で揚げていただいて熱々です。
竹癇が気になったので注文してみました。焼酎か日本酒で迷いましたが、
純米酒 薩州正宗 を頂きました。
日本で唯一日本酒を造っていない県(正しくはいなかった県)は、焼酎王国の鹿児島県、意外ですが沖縄県では日本酒が造られています。40年前に日本酒を造っていた蔵が閉鎖されて以来、日本酒製造は行われていなかったとのこと。当時、南国鹿児島では温度管理が難しく、温度で品質が左右される日本酒を安定的に造るのが難しい環境であった事が大きく起因しています。
焼酎酒蔵が40年ぶりに日本酒製造を始めた・・・それがこの薩州正宗です。
鹿児島県いちき串木野市にある焼酎酒蔵「濱田酒造・薩摩金山蔵」
黒豚の角煮
ココナッツミルク鍋
お宿(好き)に丼
面白いネーミングの丼です。具材を自分好みにお好きにどうぞ、という意味だそうです。
こんな感じになりました。
記念に頂いたパフェ
デザートの抹茶プリン撮り忘れました。
なんと記念撮影まで・・・太ってる?むくんでる?
5月12日
鹿児島旅行も最終日を迎えました。天気が崩れえるということでちょっと心配です。
部屋の露天風呂からの眺め
ホテル前の浜辺ではモーニングコーヒーの無料サービス
まだ準備中でしたがいろいろなお話を聞くことができて楽しかったです。
屋久島でもそうでしたが、鹿児島の人達も出会う人すべてが笑顔で良かったです。
吟松を海岸側から撮影。
私たちは右側の後から増設した建物の6階に泊まりました。
砂浜を歩くと・・・
ホテル吟松
カフェの従業員のおじさんに撮影していただきました。
アイスコーヒーご馳走様でした。
ホテルの内装・・・地元の焼き物や絵画など飾られていました。
昨日は入れなかった屋上の露天風呂。
他にお客がいないので撮影させていただきました。
素晴らしい景色。貸切状態なので、ゆったり入れました。
朝食
かまぼこ、こんぶ、ひじき、かつおフレーク
もずく酢
湯豆腐
さつま汁
ベーコン焼
たくさんの朝食、美味しく頂きました。
御馳走様でした。
5月11日(木)
射楯兵主神社(いたてつわものぬしじんじゃ)は、鹿児島県南九州市頴娃町に鎮座する神社である。旧社格は無格社。別名の「釜蓋神社」(かまふたじんじゃ)、「釜蓋大明神」で有名である。
窯蓋を頭上に載せて参拝する「釜蓋願掛け」や、素焼きの釜蓋を投げる「釜蓋投げ」で知られる。「釜蓋願掛け」は、鳥居から賽銭箱までの約10mの間を、頭上に乗せた釜蓋を落とさずに歩くことができれば厄よけになるというものである。勝負事に強い神社として評判が広まり、沢穂希らが祈願に訪れたり、中村俊輔がお守りを身につけたことでパワースポットとして有名になった。戦前には、釜蓋を持ったり鍋を被ったりして祈願すると、戦場で砲弾に当たらず無事に帰還できるとされ、多くの出兵者やその家族が参拝に訪れた。
伝承では、頴娃に住む臣下を訪れた天智天皇の接待のために米を蒸していると、突如起こった突風で釜蓋が遠く離れた当地まで吹き飛び、地元の人々がそれを祀ったのが始まりであるとされる。開聞地方には天智天皇とその后の大宮姫が滞在していたという伝説があり、この伝承もそれを踏まえたものである。
実際の創建年代は不詳だが、文政期(1818年 - 1830年)を遡ること800年前に創建されたといわれる。島津光久が薩摩藩第2代藩主であった寛文7年(1667年)の『頴娃郷神仏誌』には、この神社の修補のことが記されている。享保元年8月15日(1716年9月30日)に炎上したが、翌享保2年11月25日(1717年12月27日)には再建が成っており、再建時の棟札には「開聞宮末社釜蓋大明神」と記されている。天保14年6月(1843年7月ごろ)には、第10代藩主島津斉興が国家鎮護・武運長久の祈願を行っている
釜蓋を頭の上に載せて賽銭箱まで行けると願いがかなう・・・というので、広美は3回目の挑戦で見事成功!
私はあ頭の形が悪いのか、ぜんぜん前に進めませんでした。
2人用の大きな蓋もありました。