北関東ツーリング 奥久慈男体山~いわき市~鹿島神宮

11月28日 自宅--66km--マクドナルド--80km--ファミリーマート--28km--奥久慈男体山--18km--弥満喜--56km--二ツ島--37km--スーパーホテルふくしまいわき (1日目)トータル 285km

11月29日   スーパーホテルふくしまいわき--55km--ファミリーマート--49km--セブンイレブン--43km--鹿島神宮--4.6km--道の駅いたこ--173km--セブンイレブン--21km--ビジネスホテル伊勢崎平成イン (2日目)トータル 345.6km

二ツ島(ふたつしま)は、茨城県北茨城市の磯原海岸沖合にある無人島岩礁)。

夏季に多くの海水浴客で賑わいを見せる磯原海岸の沖合に大小2つの島が海中からそびえ立つ姿が特徴であったが、2011年平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とその津波により、小さいほうの島は消失した。大きいほうの島も一部崩落し、島の上部に見られた植生は失われた。地震後、島の崩落の危険性と周辺海岸の地盤沈下のため、近隣の磯原二ツ島海水浴場は翌2012年平成24年)にかけて2年連続で海開きを断念したが、2013年(平成25年)から再開した。茨城百景に選定されており、北茨城市ランドマーク的な存在となっている。二ツ島対岸の陸前浜街道沿いには二ツ島観光ホテルと磯原シーサイドホテルが立地しており、夜間ライトアップも実施されている

海風が暖かくて気持ち良い

1日目の宿泊先 スーパーホテル福島・いわき

天然温泉つきのビジネスホテル。朝食付きで一泊7000円くらい?

平日の宿泊客は9割がた工事関係者でした。きれいで居心地のよいホテルでした。

新舞子

新舞子ビーチ(しんまいこビーチ)は、福島県いわき市平藤間にある海水浴場。夏井海岸の中央部に位置する。「新舞子」の名は、兵庫県神戸市にあった舞子浜に由来し、日本の白砂青松100選に選ばれている。周辺は磐城海岸県立自然公園に指定されている。

いわき市内の海岸はいわき七浜と呼ばれるほど海水浴場が多く存在するが、その中でも最も新しいものの一つで、福島県初の人工ビーチとして1995年平成7年)にオープンした。新舞子ビーチの本来の砂浜の砂は0.2 - 0.5mmの白色中粒砂(砂岩頁岩チャート)であるが、外部から投入されたと思われる花崗岩質の荒い砂も混ざっている。ソテツなどの植物が植栽されている。かつて浜にあったハマナスの自生地はほぼ絶滅した。

無料の駐車場(約600台)やシャワー更衣室が整備されており、若者から家族連れまで人気がある。オープン期間は7月中旬から8月中旬ほどまでであり、2010年(平成22年)の利用者数は318,568人(うち宿泊客は 66,558人)。また、付近には宿泊施設も整っている。

鹿島神宮

鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社式内社名神大社)、常陸国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市香取神宮茨城県神栖市息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。

茨城県南東部、北浦鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。

文化財のうちでは、「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀国宝に指定されている。また境内が国の史跡に、本殿拝殿楼門など社殿7棟が国の重要文化財に指定されているほか、多くの文化財を現在に伝えている。鹿神使とすることでも知られる。

鹿島神宮は、下総国一宮香取神宮千葉県香取市と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。

鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海ヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(後述)。鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる。

朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。

 
 

鹿園

境内には鹿園があり、神使(神の使い)の30数頭の日本鹿が飼育されている。明治初年ころまでは、奈良の春日大社同様、鹿苑に多くの鹿が「神鹿」として蓄えられていた

古事記』によると、天照大神の命をタケミカヅチに伝えたのは天迦久神(あめのかくのかみ)とされる。この「カク」は「鹿児(かこ)」すなわち鹿に由来する神とされることに基づき、神宮では鹿を使いとするという。また、神宮の社名が「香島」から「鹿島」に変化したことについても、神使の鹿に由来するといわれる春日大社の創建に際しては、神護景雲元年(767年)に白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて出発し、1年かけて奈良まで行ったと伝えられており、奈良の鹿鹿島神宮の発祥とされている。この鹿島立の様子は、春日曼荼羅の「鹿島立神影図」でも知られる

日本では、古代より小石のことをさざれ石と呼んでいたことが、文献からも確認することができる。8世紀に編纂された日本書紀には「以砂礫(サザレイシもしくはサザレシ)葺檜隈陵上」とあり、同じく8世紀に成立した万葉集でも「佐射礼伊思(サザレイシ)尓古馬乎波佐世弖己許呂伊多美安我毛布伊毛我」や「信濃奈流知具麻能河泊能左射礼思(サザレシ)母伎弥之布美氐婆多麻等比呂波牟」と詠われている。当時の日本には、巨石はさざれ石が成長して大きくなったとする巨石信仰があり、こういった伝承について柳田国男は、近代でも全国に少なくとも35例あるとしている。10世紀編纂の古今和歌集や11世紀編纂の和漢朗詠集の註釈では、の故事にその由来を求めていて、唐で9世紀に成立した酉陽雑俎にある網にかかった小石を寺に奉納したところ一か年で40斤にも成長したという記事を紹介している。後に日本国国歌の歌詞として採用され「君が代」と呼ばれるようになる歌「わがきみは千世にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで」を収録した古今和歌集では、その序文で「さゞれいしのいはほとなるよろこびのみぞあるべき」と記しており、巨石信仰が「君が代」一首に因らないことを明らかにしている

 

奥宮
「おくのみや」。本宮社殿からさらに参道を進んだ先に、本宮本殿同様に北面して鎮座する境内摂社。『吾妻鏡では仁治2年(1241年)の火災で「不開御殿奥御殿等は焼かず」という記録があり、この「不開御殿(あかずのごてん)」は本殿、「奥御殿」は奥宮を指すとして鎌倉時代にはすでに奥宮が存在したと見られている
現在の社殿は、江戸時代初期の慶長10年(1605年徳川家康により関ヶ原戦勝時の御礼として建てられた本宮の旧本殿である。元和5年(1619年)の造替により現在地に移され奥宮本殿とされた。構造は三間社流造で一間の向拝を付するが、のちの修理の際に現本殿に倣って改造が施されたと見られている。総白木作りの簡素な意匠であるが、彫刻には桃山時代の大胆な気風も見える。境内の社殿では最も古く、国の重要文化財に指定されている

要石

 
 

 

要石(かなめいし)は、境内東方に位置する霊石。古来「御座石(みまいし)」や「山の宮」ともいう。地上では直径30センチメートル・高さ7センチメートルほどで、形状は凹型

かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として信仰された。要石は大鯰の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。『水戸黄門仁徳録』によれば、水戸藩徳川光圀が7日7晩要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったという。過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島神が出雲に出向いて留守のために起きたという伝承もある

なお、香取神宮には凸型の要石があり、同様の説話が伝えられる。この要石は「鹿島七不思議」の1つに数えられている

鹿島神宮地震に関しては、建久9年(1198年)の「伊勢暦」に詠み人知らずとして見える、次の地震歌が知られる

鹿島神宮の一の鳥居は古くは東西南北に4基があったが、現在は東西南の3基である。西の一の鳥居は北浦湖畔の鹿嶋市大船津にあり、鰐川の中にある。古くから大船津は神宮参拝者の船着場であったため、神宮の門前町もこちらの西方側に広がっている。中世にこれらの町が形成される以前は、大船津の津東西社から舟で御手洗池まで進み、そこで潔斎して参宮したと考えられている。現在の鳥居は平成25年(2013年)6月の再建で、昭和期に堤防整備により水上から陸上に移っていたが、平成26年(2014年)の御船祭に向けて改めて水上に建て替えられたものである。この鳥居は川底からの高さ18.5メートル、幅22.5メートルという大規模なもので水上鳥居としては日本最大級である。御船祭の際にはここから御座船が出発する。

東の一の鳥居は太平洋に面する明石の浜にある。伝承では、武甕槌・経津主両神はこの明石の浜に上陸し、経津主神は沼尾から望まれる香取へ、武甕槌神は沼尾から現在の本宮へと移ったという

そのほか、南の一の鳥居は古くは神栖市日川にあったが、現在では息栖神社の一の鳥居が代用されている。北の一の鳥居は神戸原にあったものの久しく失われていたが、平成29年(2017年)に戸隠神社鹿嶋市浜津賀)前に新たに建てられている。

鹿島神宮をぐるっと一回りして帰路につきました。

北浦とMT-03


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2日目の宿泊先 ビジネスホテル伊勢崎平成イン

平日でしたが工事関係者が多く宿泊してました。食事なしのプランでしたが夜は駐車場内にある 「居酒屋 北菜」さんへ行きました。


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あまり期待していませんでしたが、お酒もおつまみもとっても美味しくて良かったです。近くに来たら再訪したいお店です。

赤石岳(あかいしだけ) 悪沢岳(わるさわだけ)

2024年10月11日~12日 一泊二日

南アルプス赤石岳悪沢岳(荒川三山)を縦走してきました。

【1日目コース】椹島---赤石岳東尾根登山口〈8:28〉---赤石小屋〈11:39〉---岳間分岐〈14:00〉---赤石岳〈14:22〉---岳間分岐〈14:37〉---小赤石岳〈14:55〉---大聖寺平〈15:39〉---荒川小屋〈16:07〉

 山行 6:49 休憩 0:42 トータル 7:31

【2日目コース】荒川小屋〈4:10〉---中岳〈5:24〉---荒川中岳避難小屋〈6:00〉---悪沢岳〈6:55〉---丸山〈7:29〉---千枚岳〈7:59〉---千枚小屋〈8:39〉---駒鳥池〈9:11〉---蕨段〈9:54〉---清水平〈10:10〉---瀧見橋〈12:15〉---椹島〈12:22〉

 山行 6:31 休憩 1:39 トータル 8:10

 

前日の夜に畑薙第一駐車場に到着。車中泊をして、7:30の始発バスに乗りました。林道では9月に崖崩れが発生し、乗車員すべての人がヘルメット着用でした。

赤石岳東尾根登山口

歩荷返し

赤石小屋

コーラを購入して一服しました

 

富士山の頭が見えました

最高の天気

赤石岳山頂 

日本で7番目に高い山であり、赤石山脈南アルプス)で4番目に高い山である。

赤石岳(あかいしだけ)は赤石山脈長野県静岡県にまたがる標高3,120.5 mである。南アルプス国立公園内にあり、日本百名山及び新日本百名山に選定されている。

北岳間ノ岳悪沢岳に次いで、南アルプスで4番目の高さである。山頂には一等三角点(点名が「赤石岳」)が設置されており[1]、一等三角点としては最高所のものとなっている[6][注釈 2]。山頂直下の南に赤石岳避難小屋があり、約700 m北に赤石岳のピークがある。

稜線の東側斜面にはいくつかの圏谷が見られ、これは日本国内では最南端の氷河の痕跡である。南西斜面には「ゴーロ帯」と呼ばれる岩石氷河の地形が見られる。山頂付近では線状凹地が見られる。山体は輝緑凝灰岩火砕岩などから構成される。また、小赤石岳から赤石岳山頂にかけては森林限界ハイマツ帯で、多くの高山植物のお花畑が広がっていて、ライチョウの生息地となっている。山域にも分布する赤石山脈和名の由来である「アカイシリンドウ」は、環境省レッドリストの絶滅危惧IB類(EN)の指定を受けている。亜高山帯には、ダケカンバシラビソトウヒツガなどの原生林が広がる。ニホンカモシカツキノワグマニホンジカなどの哺乳類が生息する。静岡県側の周辺の山域は、特種東海製紙の井川社有林となっている。

山腹の南斜面は大井川支流の赤石沢の源流になっている。山名は赤石沢に多い山体の一部を構成する赤色のラジオラリアチャート岩盤に由来し、明治以降に称されるようになったとされている。なお、異説として山全体が他の山に比べて赤く見えることに由来するという説もある。

赤石山脈の名はこの山から転用されたものである。1820年文政3年)の『駿河記』で「赤石嶽」と表記されていた。日本の天文学者の秋山万喜夫は、1999年2月5日に発見した小惑星に「赤石岳」と命名している。

赤石岳山頂

明治時代には地質学者のハインリッヒ・エドムント・ナウマン植物学者の河野齢蔵ウォルター・ウェストン小島烏水などが登頂している。1957年昭和32年)に第12回静岡国体の登山部門が南アルプスが会場になって以降、この山域への登山者が増加した。

予定の16:00を回ってしまいましたがなんとか荒川小屋へ到着しました。

途中で太ももが攣ってしまい焦りましたが何とか持ちこたえました。

下調べをしなかったのがまずかった・・・

小屋では食事の提供はないという話でしたが、1000円で豚丼が頼めました。

ニンニク、ショウガが効いた、お肉たっぷりの豚丼は疲れた体に非常に助かりました。

 

【2日目】

4:10荒川小屋出発

中岳山頂にて日の出を待つ。暖かいコーヒーを入れて至福のひと時。この山行で唯一の落ち着いた時間でした。

中岳山頂

富士山と日の出

悪沢岳山頂

荒川岳(あらかわだけ)は、南アルプス国立公園内の赤石山脈南アルプス)中央部にある前岳、中岳、悪沢岳東岳)の3つのの総称である。

荒川岳は別名荒川三山とも呼ばれる、いくつかのピークの集合体である。「三山」と呼ぶ場合は以下の3つを指す(以下、西から東への位置順に記す)。

さらに、その東側に位置する以下の2つの小ピークも荒川岳の一部分である。

  • 丸山 標高3,032 m
  • 千枚岳 標高2,880 m

中岳と千枚岳には三角点があり、その最高峰悪沢岳である

丸山と富士山

丸山山頂

千枚岳山頂

瀧見橋より最後の滝を眺める

椹島は目前・・・疲れました。