鹿児島旅行【知覧特攻平和会館】

5月11日(金)

知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん)は、鹿児島県南九州市知覧町郡(旧川辺郡知覧町)にある、第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊特攻に関する資料を展示する施設。

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写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されている。その展示されている遺影、遺品のほとんどは、知覧特攻平和会館初代館長板津忠正(元特攻隊員)が集めたものである。なお館内の展示品は全て撮影禁止となっている。

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大東亜戦争GHQ呼称太平洋戦争)直前の1941年(昭和16年)12月、知覧町に陸軍の飛行場が完成。飛行場は直ちに太刀洗陸軍飛行学校の分教所となり、戦争に突入した翌1942年昭和17年)1月、最初の入校者78人が知覧に到着した。当初こそ九州島内や朝鮮(現・韓国)の各地に設けられた分校と同じく少飛特幹の教育・訓練を行うことが目的とされていたが、1944年昭和19年)夏以降、陸軍航空隊の戦術が艦船への体当たりを柱とする特攻を主軸とするものに転換。この過程で近い将来の本土決戦決号作戦)に備えた航空関連軍学校の軍隊組織化が進められた。

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陸軍飛行学校が教導飛行師団と改められるのに合わせ、 1945年(昭和20年)2月、太刀洗飛行学校は第51航空師団と改称。知覧分校は上部組織の第6航空軍に隷属する「第7飛行団」となる。こうして知覧特攻基地(ちらんとっこうきち)が誕生。振武隊(しんぶたい)と名付けられた特攻隊が出撃することになった。1945年3月20日付で、参謀本部から『「と」号部隊』と呼ばれる陸軍特攻隊の編成が発令される。同時に陸軍第6航空軍は連合艦隊の指揮下に入り、振武隊は海軍側の特攻隊として既に動き出していた神風特攻隊と共同歩調を取ることになる。そして沖縄戦始まった4月1日、第二十振武隊を皮切りに知覧からの特攻出撃が始まった。以後は海軍鹿屋航空基地とともに特攻出撃の最前線となり、戦艦大和の最期となった坊ノ岬沖海戦で一度の戦いでは最大級となる陸海軍合わせて300機もの出撃の一翼を担うことになる。

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一方で、米軍は特攻機の出鼻を挫くため飛行場をB-29の機動部隊で空襲する戦術を導入。知覧飛行場も攻撃対象となり、多くの特攻機が出撃前に失われた。陸軍第6航空軍は5月28日の菊水八号作戦を最後に連合艦隊隷属を外れたが、その後も沖縄戦線への特攻は行われた。大規模なものは6月22日の菊水十号作戦まで続き、6月25日、沖縄での組織的戦闘が終了(沖縄敗戦)するという大本営発表で知覧もその役目を終えるかに見えた。しかし、米軍の日本本土上陸はもはや間近に迫っており、知覧飛行場帝国陸軍の本土防衛の最前線となっていた。出撃は8月15日終戦まで、散発的に続いていった。陸軍関連の総出撃者1,036人のうち、全体の4割ほどにあたる439人が知覧から出撃したと会館では記録している。が、資料によっては変動も見られる。なお知覧から出撃したのは基本的には陸軍の部隊であることに注目する必要がある。実際に、出撃した航空機数や戦死兵の数は海軍の鹿屋基地の方が多く、知覧の2倍前後もの数となっている。ただし、陸軍の兵士であっても鹿屋から出撃したり、逆に海軍の兵士が知覧から出撃するといったイレギュラーケースもあった。また振武隊自体が神風特攻隊と混同されることも多いが、戦史の上では厳密に区別される。知覧から出撃した航空機は九七戦が最も多く、ついで一式戦闘機という順になっている。

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